世界の魔法について

それと、あとほんの少しのいくつか

小林啓一「恋は光」

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人が人を好きになることのどうしようもない美しさと、踊り出したくなってしまうような喜びについて。ああ、なんと美しいんでしょう。「そんないいものではないよ」というような台詞が劇中にも出てきますが、しかしそれを輝きと思ってしまいたくなるほど、替えられない瞬間が映し出されてしまっている。例えば、平祐奈のショートカットの髪を耳にかける仕草の、途方もしれない美しさ。*1 受け取ったノートを抱きしめるように、愛おしげに胸の前でかかえる仕草の美しさ。劇中で光を発さなかった西野七瀬の細やかな表情の輝き。*2 物語での「目に見える恋」表現として、CGで加えられた光と、映像には映らない輝きが交差して煌めいていて、たまらなくなってしまう。少女漫画を読むのが好きだったことがすっかり思い出されてしまった。

同じく漫画の実写化である「殺さない彼と死なない彼女」もそうだったが、実写化作品における小林監督のリアリティラインの置き方が何とも絶妙。漫画的な台詞回しとSF的設定をキャラクターに内面化させてしまうことで、物語世界そのものまでファンタジーにしてしまわない。漫画的なキャラクターは漫画的なままで、しかし僕らのいる現実世界と完全に接続するのだ。「ゼロ年代おたく的・ネット的」言語をそのまま話させてしまうのは過去作の「ぼんとリンちゃん」(大傑作!)で獲得した手法だろうか、セルフパロディのようなところもありつい笑ってしまう。*3

結局、青春映画やラブコメディにおいてなによりも、最も重要なことはただ一つで、画面の中に映っているその人がどれほど魅力的に、輝いてみえるかどうかで、しかしそのためには物語の中のそのキャラクターがそこにちゃんと、空っぽの容れ物のようでなく、生きているのかどうかが大切に思うのです。映っているものが完全に役の手を離れて、役者そのものに接近しすぎるとまた異なったものになってしまうし、*4 ショットや、構図に託されすぎてしまうのも焦点がぶれるというか、また違うように感じるけれど、この作品の中で躍動する(もっとささやかな密かな運動だが躍動と呼んでしまいたい!)キャラクターたちは、例えば(2010年代以降溢れかえった実写化映画群とは異なって)大袈裟過ぎでもなく、虚構化しすぎることもなく、絶妙なバランスで物語のキャラクターと役者そのものが幸福に手を取り合って、この内部でしかあり得ない煌めきを放っている。

まるで私自身が恋愛をしているかのように、ずっとずっとどきどきしながら観てしまった。小林監督、愛しています、本当にありがとね。私は西条(神尾楓珠)も北代(西野七瀬)も東雲(平祐奈)も宿木(馬場ふみか)も大洲(伊東蒼*5 )もみんな大好きでたまらなくなってしまったよ。北代からは、西野がかつてビデオガールを演じていたせいか桂正和から連なる少年ジャンプ王道ラブコメのかおりまで感じ、*6 おめおめと涙を流しながら拝見させていただいておりました。

そういったことで、ラブコメ的煮え切れなさも少しあり、例えば、男の子でなく女の子が同じようにときめいてくれるかはわからないし、万人に響くかは不明ですが、想起したのは「闇に触れる指先 照らすストロボライト」*7 わたしたちみんなに観てほしい、マスターピースです。

 

 

*1:ほどいてませんが大瀧詠一が脳内を駆け巡った

*2:目を細める仕草は同じ小林啓一の大傑作「ももいろそらを」における池田愛を想起した

*3:セルフパロディと言えば、冒頭引用からのスタートは「ももいろそらを」

*4:岩井俊二くらいになるとラブコメの枠を飛び出している

*5:「さがす」もだし本当に素晴らしい。彼女のお陰で10年は邦画を追える。流石ユマニテ

*6:西条、東雲、北代というこのネーミング。私は駄洒落ではなく西野七瀬西野つかさを演じてほしいのです、西野つかさ西野七瀬をモデルに描いたのだと思う、時系列が成り立たないのはわかっています

*7:桜エビ〜ず。観る前に想起したのは無論Negicco「光は愛 愛は光ね」それこそが本当のことです