【ドラマ】森下佳子「おんな城主直虎」 33話『嫌われ政次の一生』感想
大河ドラマ史、いや、ドラマ史に残る傑作だと思う。まずタイトルが素晴らしい。例えば28話『死の帳面』が名前だけでなく「DEATH NOTE」(大場つぐみ・小畑健)だったように、このドラマにおけるサブタイトルは物語の細部までを表している。しかも、この話の寿桂尼(浅丘ルリ子)によるデスノートから逃れるためには、一度自らで自らを殺さなければならない、というところまで元ネタ*1 をオマージュしていたのだから笑ってしまう。
その点を踏まえるならば、「嫌われ松子」*2 が、苦しくも実は愛に満ちた一生を送ったように、今回の「嫌われ政次」というタイトルは必ずしもその真実を示すものではないだろう。影と光、嘘と本音、黒と白。コインの裏と表のように、視る方向によって解は異なる。同じく高橋一生主演の「カルテット」で坂元裕二が描いたテーマだが、森下佳子は今作で一貫してこの「視る方向によって解は異なる」というテーマを描き続けてきた。
おとわ「正解はございますか」
囲碁のモチーフが絶妙だ。白の碁石は、政次(高橋一生)にとって光であり、太陽だ。白と黒は井伊と小野であり、光と影であるが、その陰は直虎(柴咲コウ)にとっては進むべき道を示す光であったり、寄り添う陽のようであるかもしれない。あるいは、政次を慕うなつ(山口紗弥加)にとっての白石は、太陽であっても見られたくない"お天道様"のようかもしれない。
大河ドラマというのは面白いもので、誰もが放送前に彼の退場を知っている。その死を悼む準備を、心構えを、済ませて画面に臨んでいる。先週の32話に置いても、しつこいほどに”死亡フラグ”が描かれ、強烈な引きで終了するという大演出までされた。にも関わらず、今話の前半は思ったよりは平穏だ。束の間の休息、あるいは"最後の晩餐"か。それも半ばに最後の仕事に向かうところが、この作品の描いた政次像といったところであろうか。もしくは、高橋一生に踊らされる視聴者の心のようか。手の中には収まらない。*4 そして、政次に与えられているのは、選択のための時間なのだ。これは、多くの脚本家が、テレビドラマで提示してきた普遍的なテーマでもある。
「死ぬほど考えるの。それが後悔しないための、たった一つのやり方よ。」*5
政次に迫られる選択は碁という形で示される。これまでの話でも幾度となく繰り返されてきた、不在の相手との対局であるが、もはやいまや、そこに碁盤すら不要である。囲碁のように答えは一つとは限らない。だが同時に、選択したからには必ずその答えが導かれる。悪手を打てば負け、虎松(寺田心)のように泣きをみる。それは、ここでも繰り返し表現される。「かような山猿に騙されるとは思っていなかっただろう?」は近藤(橋本じゅん)。木をとられ、族まで逃され……。井伊から不遇を受けてきた近藤氏。気賀の繁栄と近藤の不遇。*6 光と影、そして因果応報。すべて井伊が選択してきた答えなのだ。「すべては偶然でなく必然」である。必ずそこには選択があり、選択には必ず対価がついて回るのだ。*7
俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。
(中略)
それこそが小野の本懐だからな。忌み嫌われ、井伊の仇となる。おそらく、私はこのために生まれてきたのだ。*8
ここで「俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ」と高橋一生に言わせることはもはや狙い過ぎの領域のような気もするが、丁寧な積み重ねがそれを緩和している。この話まで描かれてきた政次は完全にハリー・ポッターシリーズにおけるセルビス・スネイプだったが、ここへ来て自ら生命を犠牲にしたアルバス・ダンブルドアまで一人で請け負っしまった、と思った。まさにこのドラマでは、ひとりの人物が光と影をともに内包する。更には政次が「井伊を乗取って、罪人として裁かれる」という「ドラマと史実」という対比構造まで、このシーンは包み込んでしてしまう強度を持っている。
初めて政次から打たれた白石。直虎に次の一手の選択が投げられたことを示すと同時に、龍雲丸(柳楽優弥)の「罪人として裁かれるってことだろ、悔しくないのかよ」という問いへの回答にもなっている。黒石(罪)でなく白石(無罪)であることは石を受け取ったものだけがわかっていれば良い。そこからの龍雲丸の台詞「井伊っていうのはあんたのことなんだよ!」まで。正に見事な脚本である。
あんたを守ることを選んだのは、あの人だ
(ここでも”選択”であるということがひたすら強調される。)
直虎の打った黒石。衝撃的な「罪」を負うシーンだ。直虎の「地獄へ堕ちろ」の一言が示すまでもなく、31話で政次の負った罪の反復。両者の碁石が入れ替わったように、同時に二人の会話までが裏返る。放たれた言葉は全て真実で、全て嘘となる。地獄へ墜ちる政次。未来の失われた井伊。奸臣と忠臣。磔にされ、槍で突かれ、血を吐き倒れる政次の本懐(本当の心)は、刺したものだけが知っている。画面の白黒の対比構造に言及するまでもなく、これまでの大河ドラマにおいても、ほとんど描かれてこなかった、衝撃的な演出(なのではないだろうか)によって、黒と白の真実を見事に描ききってしまった。
余談だが、放送前に、政次の退場は否が応でも三谷幸喜「新撰組!」(2003)においての、山南敬助(堺雅人)退場回『友の死』を想起させると話題になっていたが(偶然にもこちらも33話である)、友が友によって葬られるという構造まで同一である。
この最も残酷で、最も愛に満ちたシーンをテレビドラマにおいて表現できることに感動を覚える。「嫌われ松子の一生」が川尻松子という人物を通して人間讃歌を描いたように、小野但馬守政次という人物は、これ以上ない愛をもった演出で葬られた。そのことに最大の賛辞を贈りたい。
(ラストカットに描かれた、光に満ちた部屋。)
白黒を
つけむと君を
ひとり待つ
かん天伝う日ぞ
楽しからずや