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べんきょうしよう

映画と音楽とアイドルと

小沢健二の新譜が買えなかった

小沢健二が2017年2月22日に、19年ぶりのシングル、『流動体について』をリリースした。

流動体について

流動体について

 

 

 
 
このリリースは、驚きと歓喜を持って迎えられた。それはそうである。あの小沢健二が、ふいに。急に。シングルをリリースするのである。新曲がリリースされるのである。
そしてそれは、とても"彼らしい”方法で(私は小沢健二のことをよく知っている訳ではないが)発表されたのである。前年のライブの評判も、新曲の評判も素晴らしいものだった。そのリリースは、決して、多くのアーティストがするような、懐古のみに満ちたものではなかった。
当時から彼を好きなファンは勿論、彼の音楽は20年近く経った今でも旧くなっていなかったから、多くの若者もそれに惹きつけられた。私もそれに漏れず、その素敵な報せをそういった気持ちで聴いていた。普段あまりCDを買わないけれど、店着日には、いち早く店頭へ向かおうと思っていた。
……にもかかわらず、である。
 
私は、小沢健二の新譜が買えなかった。
 
今でも、店頭には並んでいると思うし、もしなくても、取り寄せたり探せば容易に手に出来る。そんなことはわかっている。私にとって、そういうことではないのだ。
 
 
店着日には上手く予定が噛み合わず、店舗に足を運べなかったが、それでも、発売日の次の日には、タワレコに足を運んだ。あった。探すまでもなく、ど真ん中に、そこに、ずらーっと、どーんと、あった。「小沢健二新曲!!」の文字。『球体の奏でる音楽』のようなジャケット。(しかも、大きい)
丁寧に試聴機まで置いてあって、聴いてみようと手に取った。けれど、その瞬間に聴いたことのないオザケンの曲が耳に飛び込んでくる。既にお店の中でもガンガンに流れているのだ。
一呼吸おいて、ヘッドホンを耳につける。間違いない、小沢健二の新曲なのである。しかも、聴きたかった小沢健二の新曲なのである。隣には男の子がいて、彼も一枚手に取っている。私は、試聴機にもかかわらず、その曲をフルで聴いた、試聴機はご丁寧にもう一台あって、私は気を使う必要がなかった、そして、2曲目の「神秘的」まで贅沢に試聴機で聴いた。そして、レジに持って行こうと、手に取った。ここまでは順調だ。
 
そして、私は、そこで満足してしまったのである。 
彼の新譜は素晴らしいものだったし、文句なんてひとつもなかった。むしろ、感動すら覚えていた。だから、自分でも何故かわからない。
無理やり理由を考えてみても、碌な理由は思い付かない。例えば、その日はひどくお腹が空いていた。
その日のお昼は少しだけ贅沢をしていたので、夜は軽食で済ませようと思っていた。けれど、にもかかわらず、私は空腹だった。ひどく空腹だった。そしてその時、私は、カレー屋でナンを食べることに酷くハマっていた。(というか今もハマっている)
 
 
CDを手に取った瞬間、CDを買わなかった自分のことが頭に浮かんだ。ここでCDを買わなければ、1000円のカレーセット(ナンお代わり自由)がお腹いっぱいに食べれて、200円も余る。そんなことが頭をよぎった。勿論、それで本当に買うのをやめようと思ったわけではない。それがよぎった瞬間、私の頭にまさか「私は、この物体を買ってどうしたいのだ?」という問いが生まれてしまった。
 
このCDを買えば、私は勿論このCDを聴くだろう。だが、それはこの美しく並べられたCDそのものではない。私は、そこから取り出したデータをただひたすらに読み込み、読み直すのだ。そこには、このなんとかインチのジャケットは、なにも関わってこない。ただよみ終わり再び心臓部が袋に戻されるのを待っているだけだ。それなら別に配信でもアップルミュージックでもYouTubeでもいい。(オザケンがそこにあるかは知らない。)わざわざこんな大きな容器を用意する必要など無いのだ。
それでも、まだこのCDに1200円なんかより相当高い値打ちが、私にとってはあるはずだった。
私の部屋にある『LIFE』は多分、一度も再生されていない。で、棚の奥の方で眠っている。このアルバムは初めレンタルで借りてきたものだったが、この発売と同じ年に生まれた私にも強烈に響いた。気付いた頃には、私の人生のアルバムベスト10に入るようなアルバムになっていた。
その頃にはブックオフで250円でいくらでも並んでいたアルバムだったが、たとえ一回も再生されなくても、私の部屋のどこかに、繰り返しているそのデータの元があることは、私にずっと重要なことだったのだ。
そして、『流動体について』は『LIFE』若しくは「天使たちのシーン」や「さよならなんて云えないよ」などとくらべても、まったく劣るものとは思わなかった。つまり、私にとって容器を用意する意味のあるものであるはずだった。
でも、どうすれば良かったのだろう。部屋に持ち帰り、本棚の上に飾っておけば良かったのか。あるいは、「小沢健二の新譜!」みたいな感じで、写真を撮って呟けば良かったのか。どちらでもなくて、パソコンに取り込んだあとで、棚の端のほうに、他のあれこれと同じように、眠らせておけば良かったのか。そのどれも、私には違う気がした。
なんて、訳の分からないことばかりをふと考え始めてしまい、私の「買いたい気持ち」は急激に冷めてしまい、「まぁ、また別の日に買えばいいや」みたいな感じで、急いでないし、みたいに自分に何故か言い訳をしながらタワレコを出た。そして、その後意味もなくHMVにもより、小沢健二の新譜が並んでいるのを確認してから、私はカレー屋に入り、ナンを2枚おかわりした。
LIFE

LIFE

 

 

 
数日経った今日、バイトの帰りにまた、CDショップに寄った。今度こそ帰ると思いCDを探した。一週以上経っていたため、メインキャストを張ってはいなかったが、それでもそこそこ目立つところに彼はいた。しかし、そこにはなんとかインチのかっこいいジャケットは並んでおらず、代わりに通常盤、と書かれたそれが並んでいた。こちらのほうが小さいし置き場にも困らない。けれど、また買うのを躊躇してしまった。なんだか、尚更、ただのデータの容れ物に見えた。
そして私は思った。CDをインテリアとして置く覚悟がないと、もうCDを買えないのだと。あるいは、CDに付加価値を持たせないと、もうCDを買えないのだと。考えてみれば、250円で『LIFE』を買った時からそうだった。私は私の部屋に(例え飾られていなくても)それがあることに満たされ、満足していた。
私は、私の部屋のインテリアとして、小沢健二の新譜を置く自信がなかったのだ。私は付加価値は別にして、小沢健二の新譜を聴きたかったのである。というか、ただ単純に、、好きなアーティストの新譜を楽しみたかったのだ。
けれど、他の多くの音楽は、月1000円ほど払えば聴けてしまうのだ。それは決して1000円ぽっちの価値ではないとしても、その値段で聴けてしまうのだ。けれど、そこにある音楽とない音楽がある。無い2曲に存在する何万曲の値段を払う?
こんなことは、考えなければ問題ないのだ。別にお金がないわけではないのだから、ただ、何故か私は空腹のせいでそんなことを考えてしまって、小沢健二の新譜を買えずじまいでいる。
 
そうやってふっと色々感じてしまった私は、わざわざ付加価値を背負えるほど、この新譜が欲しいかわからなくなってしまい、なぜか私は、ナンを食べてインスタグラムにあげる付加価値を選んだのである。(フォロー、フォロワー0人)