べんきょうしよう

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鞄を買った

鞄を買った。

使っていた安いリュックサックももう大分使ったので、旅行先で新しいリュックサックを買った。
ぱっと見とてもかわいらしかったので、自分は3色ある色の濃さからどれにするか悩み、真ん中のものを買った。
宿泊先に持ち帰るまでは、良い買い物をしたと思っていた。
 
いざ、その鞄を使ってみると、いくつかの問題があった。
四角くてかわいいな、と思っていたその出で立ちは少しモノを入れて背負っただけでフニャっとなる。全くもってフォルムの意味がない。プッチンプリンをプッチンするとグシャっとなるあの感じに似ている。更に、本当に気になるのは歩くたびにチャックの金具が「チリン、チリン」と鳴ることである。猫になった気分で歩くことを強いられてしまった。
多分、この鞄を作った人は試しに背負って歩いてみたこともないんじゃないか、と思った。フニャっとなる問題はまだしも、金具がチリンチリンとなる問題は少し歩けばわかりそうなものだ。おそらく、完成した、やったー!で終わってしまったのか。それとも、それほど高級品でもないから気にしていないのか。かわいいのに勿体無い。
私は貧乏性なため、なんとかこのかわいい鞄をかわいさを保ったまま背負えないかと試行錯誤した。鞄を買うのは約2年ぶりである。せっかくの2年に1度の出会いをこんな形で消費するのは勿体無い。フニャっとならないように厚紙をいれてみたり、チリンチリンしないようにビニールテープを巻いてみたりしてみたが、どれも上手くいかなかった。
 
これはセンスだ、と私は思った。ファッションセンスのことではなく、生きるセンスのことである。世の中の人は、殆ど鞄を持っている。そこには仕事の書類やら、手帳やら、常備薬やら、あるいはマンガやらを入れている。多くの人は何も背負わず自由にはなれない。
鞄は人間そのものを映すし、人の生きるセンスを映す。生き方や、生きてきた習慣を映す。私は手に持つ鞄は持ちたくない。きっとどこかに忘れて、そのままになってしまう。電車の前の女の人は、器用にかわいらしい小さな鞄ふたつを、吊革にもつかまらずに持っている。私には出来ない。友人のOさんは、普段鞄をもたない。いつもポケットに入れるのはスマートフォンと、小さなモバイルバッテリーと同じく小さな財布だけで、手ぶらで飄々と現れる。彼が何か受け取ったりしたり、私が彼に渡すものがあると、とりあえず持っててくれませんか、鞄ないので、と彼はそれを私の鞄などに入れておく。私はだいたい忘れて渡しそびれてしまうし、彼も忘れて受け取りそびれてしまうのだが、そういえば忘れてましたね、くらいな全く困ってない感じで、次の日あたりに飄々とメールがくる。交差点でまわりを見渡すと電車の中の人たちは、皆それぞれ自身にあった鞄を背負っている。少なくとも、その人自身をある程度映しているようには見えた。
背負っただけで、フニャっとなってしまう。少し歩くと、チリンチリンと音がする。かわいらしくあろうとしても、どこか適当で、肝心なところがしっかりしていない。それでも、騙し騙し背負われている。この鞄は、いかにも私の生きるセンスだな、と思った。