べんきょうしよう

映画と音楽とアイドルと

【雑記】スマートフォンによってもたらされる世界が脅かす私の孤独についてのこと

ずっと前から気づいていたけど、言霊ってものを信じているから言わなかった。でも流石にもう認めたほうがいいから言う。私はスマートフォン依存症だ。というか、私以外もたくさん居るんじゃないかしら、スマートフォン依存症。

でも、スマートフォン依存症ってものはあるのだろうか?いや、それはあるにはあるのだろう、スマートフォン依存症。でも、例えば電車に乗ったらみんながスマートフォンをいじっている。ホームでもいじっている。歩きスマホなんかもしている。もはや、新聞を電車で読んでいる人なんて少数派もいいところで、ちょっと長い電車に備えて文庫本を持っていく人も少なくなったんじゃないかしら。それじゃあスマートフォンに依存するのは普通のこと、依存症だなんて、異常な病気みたいに騒ぎ立てることじゃないのかもしれない。

でも、これまでに確かに存在したのは、携帯依存症だ。自分が高校に入った頃買ってもらった携帯はまだいわゆる「ガラケー」だったから、確かに親に言われた。気をつけなさい、携帯依存症。

あの頃はまだ、「携帯に依存する」というのが異常なことだったのだろう。対して、今現在はどうなのだろうか。スマートフォンは携帯などと比べて色んなことが出来すぎるので、あんまり一つのことに執着、つまり「依存」しているって感じはしない。スマートフォンを使っている人は、料理のレシピを観てるのかもしれないし、それこそそこで新聞を読んでいるのかもしれない。映画を観ているのかもしれないし、本を読んでいる、音楽を聞いているのかもしれない。依存と簡単に断定するには、多様性にしっかりと富んでいる。それならスマートフォンを触り続けることは、一概に「依存症」なんて言えないのかもしれない。スマホは目的じゃなくてツールにすぎないのだ。

でも、それでもやっぱり思うのは、私は「スマートフォン依存症」だ、ってことだ。そしてこれから話すのは、じゃあここで言う「スマートフォン依存症」ってなんであるのか、ということと、私のような「スマートフォン依存症」の人は気をつけたほうが良いってこと、この2つである。私がこれを書こうと思った理由は、はっきりとは自分でもわからないが、おそらく、私がスマートフォン・携帯のない学生時代を送った最後の世代であり、スマートフォンのある学生時代を送った最初の世代のため、意味のない義務感を覚えたのだと思う。そして、今私が触れているスマートフォンという装置は、果たしてなんであるのか、これを再定義したい欲求に駆られたのだと思う。これから私が書くのは、いたって当たり前のことである。同時に、当たり前だけど、いまいち抜け出せないスマートフォンの世界のことである。

 

まず、本題に入る前に、軽く私の話をする。私はある程度普通の家庭に生まれ、ある程度普通の子どもとして育ったように思う。そして、歌ったり冒険を想像したりするのが好きな幼年期だった。人より少しだけ本を読むのが好きで、人より少しだけ運動ができなくて、走るのも歩くのも遅かった。でも速く走るのには憧れていた。そういうの楽しいなって思っていた。

私はまだ自己分析や振り返りができるほど、成熟した大人ではないけれど、恐らく幼年期の私と世界のつながりは「物語」の中にあった。読んでいた児童文学や絵本の中が、世界であり、ひとつの社会だった。勿論、このような空想の社会だけではなくて、同時に幼稚園の中も、私にとって家族の次に経験した、大きな社会/世界であった。私は幼稚園という世界では、馴染めなかったり、友達がいなかったりしたわけではないけれど、歩くのも走るのも遅かったので、よく置いて行かれた。だいたい、優しい女の子とかが戻ってきてくれるのだけど、置いて行かれているときの私は、孤独だった。まだ孤独って言葉は知らなかったし、寂しいって思っていたかもわからない。「待ってよ」くらいなものだと思うけど、それはきっと孤独だった。幼少期の経験というものはある程度印象強く残るものであると感じる。

ここで私が幼年期のことを持ち出して言いたいことは、誰でも「世界」「孤独」というものを経験して成長していくということだ。その経験過程は人によって違うし、大して「孤独」は感じなかった、普通に生きている教室空間以外の「世界」(=社会)なんて思い当たらないな、という人もいるだろうから、その度合いもバランスも人によって違うということは言うまでもないが、ともかく、私にとっての憧れる「世界」は物語だったし、「孤独」は置いて行かれた記憶だった。そして、一般的に「世界」というものは「触れたい対象」であり、「孤独」は「逃れたいもの」である。このことをまず前提に置いておきたい。反対に、「世界」(社会)との関わりに疲れ、「世界」が「逃れたい対象」であり、「孤独」が「得たいもの」である人もいるかもしれない。どちらにしても、「世界」「孤独」この2つのちょうどいいバランスを人は生きながら探していると言っていい。

さて、私が言ったこの場合の「物語」というものについてもう一度述べておく。私にとっての「物語」は「幼稚園という世界」の他にもう一つ存在していた「世界」つまり「擬似世界」である。物語はあくまで、世界のようなものであって、本物の世界ではないのだ。でも、誰かが何かの世界を空想して作った「擬似世界」である。現実ではない。そこには見た目が子供の探偵がいるかもしれないし、ネコ型のロボットが居るかもしれないが、そこは「世界」であり、人々はそこに惹かれるのである。私の場合、「擬似世界」にはまず物語が設定されたが、人によって大事にする「擬似世界」というものはそれぞれ別に存在するだろう。例えば学問だってある種の社会であり、歴史であればかつて存在した社会を研究することとなる。これもひとつの「擬似世界」である。先ほど述べたように、人は世界に触れたいものであるとすると、人は世界そのものに触れられない場合「擬似世界」を求めると言える。(勿論、ここでいう擬似世界と定義されるものに触れる要因としては、知識欲とか別の理由も想定しうるべきではあるけれど、ここではややこしいので置いておく)まず、人が社会そのものに触れられる時間はそもそも限られるし(家に帰り、一人の時間があるだろう)、あるいは、現実の社会そのものと向き合いすぎると、人は疲弊してしまうので、擬似世界のようなもう一つの世界を本物の世界の代用として利用する。他には、現実の社会そのものと上手く折り合いがつかない場合など(母親が仕事で一人の時間が長い、友だちが少ないなど)、社会そのものの代わりに、これも擬似世界を利用することで、世界そのものと触れたい欲求を満たす。ここで「世界そのもの」に触れる機会が多かった人はコミュ力が高く、「擬似世界」が多かったひとは低くなるような気もするのだが、その話はややこしくなるので置いておくとしよう。

 

長くなったが、ここでスマートフォンの話に戻る。では、ここでいうスマートフォンとはなんなのだろうか。ものを調べる装置だろうか。新聞の代わりだろうか。電話の代わりだろうか。それも間違いではないが、スマートフォンとは「世界」と触れられる装置なのだ。それも、物語のような「擬似世界」よりも、より世界そのものに近いものに触れられる装置なのである。

細かく言うと、世界と触れられる装置というものはスマートフォンだけではなく、昔から存在した。スマートフォン以前の「電話」もそうだし、「テレビ」もそうかもしれない。もっと広義に考えれば「手紙」もそうだろう。手紙は最古のソーシャルメディアといったところだろうか。

しかし、スマートフォンはそれらとは似ているが、明らかに異なっている。手紙はやりとりによって世界と触れられるが、そのスピードはものすごく遅い。電話は一度に一人の相手としか話せない(話せなかった)から、世界と言っても最小単位の世界としか関われないし、それなりにお金もかかる(かかった)。新聞やテレビは誰かの映し出す世界を一方的に受け取ることは出来ても、自分自身はその世界に干渉できない。テレビが供給したのは、自分の存在しない世界なのだ。つまり、少し乱暴に定義してしまえば、スマートフォン以前の携帯や、パソコンは「世界と触れられる装置」の先駆けであると言っていい。スマートフォンはそれらの装置を経て、様々ある使用用途と同時に「世界と触れられる装置」としての機能を強化し、発展してきた。メールからSNSやLINEに。電話することだってもうたいていはお金がかからなくなった。(毎月の固定料金のみなど)擬似世界への入り口として使われることの多かった、大きい画面よりもむしろ、いつでも手軽で身近な世界であることを選択して、スマートフォンは、持ち運べるポケットサイズの世界として存在している。しかも、それは今までの擬似世界よりも、よっぽど世界そのものに類似しているのだ。

スマートフォンを開けば、友達が話している。好きな人が話している。しかもそれぞれ別々に話しているだけではない。そこは例えばタイムラインだったり、あるいはグループトークだったりするけれど、色んな人が集まって、集合体として、世界を形成している。それに加えて、相手の愛か自分の少しの勇気があれば、その中の好きな子とだけお話したりだってできる。他愛のない世間話だけじゃなくて、好きな音楽のこと、知らない街のこと、知りたかった考え方、哲学、そんなことだって話していたりするのだ。これは当たり前のようで、とても革命的なことだ。なぜなら、このことは今までの擬似世界とは明らかに異なっているからだ。今までの世界は、物語にしろ、学問にしろ、映画にしろ、相手が存在しなかった。物語は極めて「世界」じみているが、物語の中の人々とコミニュケーションをとれることは基本的にあり得ない。もしあるとすらば、それは、自分の空想の中に限られる。学問にしろ、映画にしろ、過去の人々の社会の積み重ねで出来た擬似世界は、そのものだけでは自己完結してしまう。それを更に広げていくためには、世界そのものに還元していかなければならない。「映画を観る」ことが「擬似世界」を生きることであり、「映画の感想について話す」ことは、擬似世界を「世界」そのものに還元することである。しかし、スマートフォンの中にある「世界」は、自己完結しない。「おはよう」とつぶやけば「おはよう」と返ってくる世界である。それどころか、自分が「おはよう」とつぶやくことなしに、開かれる前から「今日疲れた」「楽しかった」「早いけど寝る」のように、毎日異なる世界そのものが動いているのである。自己完結どころか、ほぼ終わりがなく、世界が動き続けているのである。

私は、ある人間にとって、孤独が逃れたいもので、世界が触れたい対象であると述べたが、そのような人間は、スマートフォンという装置を得ることによって、どうなるだろうか。無論、そのポケットサイズの世界に没頭することは言うまでもない。孤独を減らしたいと感じ、世界を求めれば求めるほど、ポケットサイズの世界にのめり込んでいく。その中には世界があるのだから、スマートフォンに触れることはほとんど世界と触れることと同義であるし、世界と孤独が相反するものであるならば、世界に触れる時は人は孤独ではない。そうするとついに「スマートフォン依存症」の誕生である。

ここでひとつの問題が提起される。私はスマートフォンは「世界と触れられる装置」述べた。しかし、これまでここまで明確に、擬似世界より世界らしい世界お触れられる装置は存在しなかった。つまり、社会そのものは、いつでも世界とつながれる装置を想定していないということである。

世界とのつながりを求める人、極端に言えば世界とのつながりを目的とする人が、世界とつながれる装置を手にした場合、それを使えるだけ利用してしまうのは自明のことである。しかし、それでは社会に綻びが出てくる。繰り返すが、これはスマートフォンそのものが悪なのではなく、このような装置の存在をこれまでの社会(世界)は想定していなかったためである。まず、一番基本的な例を挙げれば、働く間は私用でスマートフォンを取る訳にはいかない。授業中はTwitterはできない。しかし、社会とつながることは「手段」ではなく、ある種の「目的」のようになっているため、目の前に「目的」が転がっているにも関わらず、仕事という社会生活を送るための「手段」を選択しなければならなくなる。これは一種のジレンマであるとは言えないだろうか。勿論、生活の手段としての仕事はこなさなくてはならないから、まだ問題はないし、また、このように半強制的に、スマートフォンを使えない場合は別に「依存」と今回定義した人でも使わないのである。問題は、使ってもいいが、使わないほうがいい場合なのである。良い例が思いつかないが、先ほどの例と並列させると、受験勉強や資格試験がこれにあたるのではないだろうか。これは、勉強しなければいけないが、しなくても罰を受ける訳ではない。ただ、行わないと望んだ将来を選べなかったり、出世ができなくなってしまう。

ここで一度「受験勉強」や「出世」について考えてみる。それを行ったり、目指す理由は様々なものが挙げられるだろう。ただ、大きくわけるとその目的は二つにわけることが出来ると思う。「お金を稼ぐこと」か「やりたいことをするため」である。お金を稼ぐと、ある程度快適な生活を送ることができる。心地よい家に住んだり、食べたいものを食べたりできる。同時に、例えば人と遊びに行ったり、趣味に没頭する余裕をもって生活を送ることができるかもしれない。

そして、「人と遊びに行く」というのはまさしく「世界との接触」である。そして、「趣味に没頭する」、例えば趣味が物語を読むことであったとしよう。そうすると趣味は「擬似世界への接触」と言い換えることができる。やりたいことをするというのは、趣味であれ、職業であれ、例えば小説を書きたい、漫画家になりたいというものであったとしよう。これも「擬似世界への接触」と言い換えることができる。つまり、お金を稼いだり、将来やりたいことをやって成し遂げたいことの一部は、わざわざ大回りをしなくてもスマートフォンによって代用できるということになる。無論、スマートフォンのみによってのほうが出来ることは限られるが、それでも効率的なものを考慮にいれた際、必ずしも劣っているとは言えない。つまり、スマートフォンが存在することは、目の前に安易かつ大きな目的そのものが置いてあることなのだ。

ここでもう一度擬似世界について考えてみる。今までの社会は、社会そのものとつながれない時間があるのが当たり前だった。そのため、擬似世界というものが存在した。小説、映画、演劇、学問。このようなものである。しかし、スマートフォンという、今までの擬似世界に触れられるものよりも遥かに世界そのものに触れることができるものが生まれたのである。果たして擬似世界は必要であろうか。勿論、小説、映画、演劇、学問そのものは必要であるし、それらには大いに擬似世界としての役割以外の魅力的な側面がある。だが、それらの擬似世界的な側面は必要だろうか?あるいは、それらの擬似世界的な側面は、これから求められるだろうか。

例えば、「スマートフォンがあるから勉強できない」これはただの言い訳であろう。しかし、「スマートフォンがあるから本を読まない」と聞くとどうだろうか。果たして本を読まないことは問題だろうか。「2時間座って映画見るより、スマホだらだらいじってるほうが楽しい」こう言ったとき、少なくない人がそれに共感を得たり、そう思うようになったという心当たりがあるのではないだろうか。

話を戻すが、つまり、社会は常に世界とつながれる装置を想定していなかったということは、してもしなくてもいいことを常に妨害しうる装置を想定していなかったということであり、擬似世界を脅かすような、世界そのものではないが、より世界そのものに近いものが生まれることなど想定していなかったということを意味する。擬似世界は、スマートフォンによって、これまでのように成り立たない可能性があるのだ。

そして、これまでの擬似世界を作り出す装置は、作り出すのが「擬似世界」であったため、社会に想定されていたし、終着点が存在した。例としてラジオを挙げよう。今日のラジオは今まで上げたどの擬似世界よりも、世界そのものに近いメディアであるかもしれない。テレビに似ているが、テレビよりもリスナーとして、自分も社会に参加することができる。ラジオが想定する世界に、自分自身の存在が想定できる。だからある人は「ラジオ依存」のように、毎日ラジオをつけて生活するのだろう。しかし、その依存性と同時に、今までの社会はラジオの存在を社会の中に想定していた。「深夜ラジオを聴きながら受験勉強」という文化がお約束のようにあったし(それが実際良いのかはわからないが)、あくまでラジオは「聴く」ものだから、世界に触れると同時に勉強することだってできた

ラジオでない他の擬似世界はどうだろうか。例えば物語に没頭したら、物語にのみ集中し、勉強はしなくなるかもしれない。しかし、それならば小説家になればいいのだ。演劇にのめり込んだら、役者を目指せばいい。要するに、擬似世界というものは、終着点が与えられているのである。先ほども述べたが、擬似世界はあくまで「擬似」であるから、それを世界そのものに還元する必要が生まれる。そのため、終わりのない泥沼にはならないのである。そのため、擬似世界は、今までの世界で想定されうるのである。私は、学問も擬似世界であるといったが、医学に没頭したらどうだろう。親は大いに喜ぶのではないか。

しかし、スマートフォンの存在は今までの擬似世界とは違って、想定していない。いつまでも世界と触れていること、終着点のない装置なんて想定していないのだ。コミュニケーションそのものは、行き着く先が想定できないのだ。なぜなら、コミュニケーションは手段というより、目的だからだ。

ここまで、少々強引に論を進めた。もし仮に、スマートフォンが世界とつながれる装置だとしても、それによって、他のことを放棄してしまったり、擬似世界の魅力が失われてしまうということはない、そのように考える人も多いと思う。確かに、そこまでスマートフォンが強大な魅力をもっているとすると少々強引かもしれない。また単純に、スマートフォンがもたらす世界よりも、映画を観たり、作ったりすることに魅了を感じ、それを脅かされることはないと言うかもしれない。私も、スマートフォンによる世界には魅力を感じるが、物語の擬似世界に没頭することを好む。物語を愛している。ただ、それは私たちが、スマートフォンのない時代を生きた経験があるからではないだろうか。

今日、私と同じか私より上の世代の人は、生まれた時からスマートフォンがあるということはなかった。そして、スマートフォンが生まれるなんて想定していない世界のシステムの中で生きてきた。ちゃんと、幼い時に「世界」「孤独」「擬似世界」を経験して育ってきた。ポケットの中の世界に触れる前に、世界に触れられない孤独な時間を感じ、それを擬似世界で満たす経験をしている。物語の世界がとても魅力的だと気づく機会を得たのである。

先日、電車に乗っていたら、3歳くらいの子とその父母と見られる夫婦が、親子で私の隣の席に座っていた。そしてその子は父親に何かをねだった。そして、父親スマホを取り出した。その子は嬉しそうに笑って、そのスマホでゲームを始めた。まだ3歳だからSNSはないだろうから、子供用のゲームのようなものをするのだろう。しかし、その子はおそらく、私よりはるかに早く、スマートフォンを使って社会に触れる体験をするだろう。私よりはるかに早く、いつでも社会に触れられる装置を、いつでもポケットに入れるようになる。

もし私がその子なら、物語に今のように「世界」を感じなかっただろう。今のように物語を求めなかっただろう。そんな擬似世界なんかに頼らなくても、もっと社会そのものに近いものが、ポケットに入っているのだから。そうすると、擬似世界は役割を終える。小説、映画、演劇も、勿論擬似世界としての役割以外も持ち合わせているから、なくなりはしなくても、入り口は狭くなり、その役割の一部を終える。それに没頭する人はなくなりはしないが、それに没頭する人数は明らかに少なくなる。物語の次に狭まっていくのは学問かもしれない。そうなるとそのうち人は椅子に座って勉強しなくなるかもしれない。目の前に、世界とつながれる装置があるのだから、他の事の価値が相対的に下がるのは当たり前のことだ。私は、若者の〇〇離れの一因もこれにあると思う。

私が言いたいことは、だからスマートフォンをなくそう!でも、スマートフォンを幼いうちからもたせるな!でもない。本来、世界とつながる機会が増えるのは好ましいことのはずなのだ。私は、スマートフォンを持って、SNSを始めてから、今まで知り得なかったことも知ったし、知っている人の知らない考え方に触れて、仲良くなるきっかけをもったりもした。まさに、知らなかった人に知り合えたりもした。大切な人の好きなものを知れた。友人と語り合えた。私は常に世界を求めて孤独から逃れようとしていたから、ポケットに入る世界の出現は喜びであるし、救済である。しかし、だからこそそれに依存するのである。世界はこの装置を想定していない。想定していないからといってなにが起こるからは私はわからない。けれど、その存在は私たちに想定していなかったことをもたらし、想定していなかったものまで奪うのではないかと私は思うのだ。

 

一番始めに話を戻そう。私のような「スマートフォン依存症」の人は気をつけたほうが良い。ここでいう「スマートフォン依存症」は「コミュニケーション依存症」なのだ。コミニュケーションは魅力的だ。もしかしたら他のものを奪うかもしれないほどに魅力的だ。街ではたくさんの人がスマートフォンをみている。その全てを否定するわけではない。スマートフォンはツールだ。料理を調べる、単語を調べる、カメラになる、懐中電灯になる、勉強ができる、映画が観れる。スマートフォンをツールとして「今までの擬似世界」と触れている場合は問題ない。世界は恐ろしく便利になった。でも、その小さな箱のなかにある「世界」を気にして、「孤独」の割合調整をしている場合は、気をつけたほうがいいかもしれない。目の前に世界が転がっているのだ、これ以上魅力的なものはない、野望が減る、草食化する、若者は保守化する、もしかしたらそのうち医者の数が減る?大好きだった物語を読もうと小説を開いて10ページほど読んだところ、その世界で何が起きているか気になってスマートフォンを開く。スマートフォンのなかった小学生だった私は思う。それは分かれ道でいつまで経ってもバイバイできなかったあの感じに似ている。放課後、意味もなくダラダラ残り続けていたあの感じに似ている。私はまだぎりぎりそれを知っている。

スマートフォンが次に奪うのはなんだろう、私の孤独だ。擬似世界に入ってまで埋めようとした、人々の孤独だ。孤独がなくなるとなにがなくなるのだろうか。私にはわからない。孤独がなくなると寂しさはなくなるのだろうか、私にはわからない。