べんきょうしよう

映画と音楽とアイドルと

【雑記】エッセイを読む

年々、何故か小説が読めなくなっているので、最近の読書と言えば専らエッセイということになる。

エッセイはいい。無理に何かを想像したり、頭の中で動かしてみたりする必要がない。極端な話、内容がわからなくてもいい。普段誰かの話を聴くときのように、聞いているか、聞いていないんだかって感じで、なんとなく読んでいればいい。興味のない腕時計の話ばかりしてくる上司の話は、無理して聞かなくてはならないが、エッセイなら、それもない。やめたきゃやめればいいし、なんなら飛ばせばいい。

ただ、ぼんやり話を聞いているときと同じで、適当に読んでいるからといって、自分にとってどうでもいい無駄な時間かというと、別にそんなことはない。案外、そういった中に、自分自身の考えを形作るものや、勝手に何かの指針となる言葉があったりするものだ。

また、どうでもいい話を聞いていることがきっかけで、別の大事なことをふっと思い出したりするものだ。「あ、電気料金の払込今日までだったな」とか。違うか。

 

この前は、北川悦吏子のエッセイを読んだ。

恋愛道 (角川文庫)

恋愛道 (角川文庫)

 

 あの恋愛ドラマの女王が書くエッセイだから「うわ!モテそう!」みたいなところばかりかと思ったら、案外そんなこともないというか、北川先生に失礼だが「うわ!なにそれ!もてなそう!」みたいなものも意外とある。恋愛ドラマを作るということは私たちが勝手に「高橋一生くんかっこいい・・・!あんなことさせたい!きゃっきゃっ!」みたいに考えることの延長線上にあるのかもしれない。

でも、このエッセイの中心に出てくる大学時代の北川悦吏子は、やっぱりもてそうというか、本人が書いているのになんとなくかわいらしくて、それなりにもてるんだろうな、というような気がする。女性のエッセイを書く方にありがちな、男性に対して辛辣でわがままと言うか、腹黒いところも赤裸々に厳しく書いているのに、それでもなんだか憎めないというか、そんな感じが出ている気がする。

まぁ実際、北川悦吏子がどんな大学生だったか、もてるのかもてないのか、そんなことはわからないし、それはどうでもいいのだけど、やはり、読み進めていくとエッセイを読むのは面白いな、と思う瞬間がある。

エッセイを読むことは、人の世界に触れることだ。それは、のめり込んで没頭してしまう場合もあるし、そっと触れて心温まる場合もある。でも最初は、なんとなく話を聞き流すように読んでいて、それでも気づいたらその世界に入っているものだ。聞き流したようなままずっと最後の方まで読んでいって、「ふーん、そうなんだ」くらいのこともあるが、それはそれで趣というか、らしい世界との触れ方だとおもう。

このエッセイは、中学の時、自分自身に近いなんて勝手に思いながら、熱中していたオーケンのエッセイとも違えば、遠いけどドキドキして憧れる坂本真綾のエッセイとも違った。インドを旅行すると行ったような、遥かに遠くの場所の話でもないけれど、北川悦吏子のエッセイは、自分とは遥かに遠い、でもこの世の中のどこかにあるところのお話を書いたエッセイのように思えた。それは、時代が今と微妙に離れているというのもあるのだろうけど、知っている東京の街などを書いているのに、やっぱり遠くに感じた。でも、こんな風に自分が普段感じない、接触しない、でも案外自分の近くにある、自分と違った世界を感じられる、体験できる、これはエッセイを読む楽しみの一つだなと思う。

そして、もし、この北川悦吏子の世界の中に私が出てくるとしたらどのようにでてくるだろうと考えた。こうなると北川悦吏子は現実の世界を文字にしているはずなのに、まるで空想の世界のようだけれど、私にはきっと、彼女と上手くやる男として出てくる隙間はないだろう。だからといってなんか残念な男の域にも乗れる気がしない。きっと「大学時代、きっと私のことを好きだった男の子がいた。」みたいな感じで出てくるんだろう。「でもその男の子とはなにかがあったわけじゃなくて、数回映画を見に行っただけなのだけど。」多分こんな感じだろうか。

私は、そんなことを考えると同時に思う。人には、それぞれきっと役割があるのだ。身の丈もあるのだ。私は「きっと私のことを好きだった男」で、友達のKくんは「私が、実は中学時代好きだった子」Wくんは「3ヶ月だけ付き合った子」みたいな感じ。そしてこのことは空想ってことじゃなくて、私が人生で出会う誰かの中で、私は「きっと私のことを好きだった男」なのだ。反対に切り取る世界が変われば、見え方も変わる。オーケンのエッセイみたいに考えて、私の視点でその女の子を見れば、彼女は「グミチョコの美甘子のような娘」かもしれない。そう考えると、私の友人の世界は、どんなのなんだろうと気になってくる。反対に、私の世界は何なのだろうとも思う。私はそんなことを考えながら、今日もエッセイを読んでいる。

神菜、頭をよくしてあげよう

神菜、頭をよくしてあげよう

 

 

 

 

 

【雑記】他人と歩く、ということ

人は旅に出る。人は旅行をする。

もしも休みが貰えれば、ちょっとヨーロッパにも行ってみようか。
 
私は海外旅行をしたことがないのだけれど、海外旅行というものを、羨ましく思っている。
「パリの街で、〜に入るのが日課だった」みたいな、海外旅行やホームステイ、留学などのことを思い返したツイートを見ると、とても素敵だな、と胸がきゅーっとする。
 
旅をすること、とは記録を残すことだと思う。
パリの街並み、ハワイの海、沖縄の海、京都の街並み、大阪の通天閣……。
今の時代、どんな場所も行かなくてもすぐに調べることができるし、どんな場所も知識だけなら、行った人よりも深くつけることが可能かもしれない。VRなどがこれから発展したら、行かなくても体験が出来るようになるかもしれない。
でも、旅に行くと、その街は、知らない街から、行ったことがある街へと変わる。それは、その街に初めて行った時や、体験したこと、感じた時の記憶を残すということである。
 
例えば一度パリに行ってしまえば、二回目に訪れた時、初めて訪れた時のことを思い出す。はじめての海外で不安だったこと。道もわからなくなって言葉も通じなくて不安だったけれど、なんとか身振り手振りで伝えたら、伝わったこと。その後に食べた夜ごはんに、信じられないくらい感動したこと。再びその街を歩いたときに、その時の感情が、その時の空気やにおいと共に思い出される。それは、その街に記録を残すということだ。
 
私はまだ海外に行ったことがないから、旅ものエッセイを読んで、気を紛らわせている。行けば良いのにね。
 

 

 

 

from everywhere. (星海社文庫)

from everywhere. (星海社文庫)

 

 

 

 

 
特に海外旅行などの強いインパクトを持つ、文化的、物理的にも距離の離れた場所へ行く旅行は、嫌でも街に記録を残す。国内旅行でも、旅の中で特殊な経験や体験をしたり、感じたことがあれば、それはしっかりと記録になる。けれど、普段歩いている街や、駅や、道は記録になりにくい。その街を離れてしまった時に、大きな時間の集合体として、記憶に思い出されるだけだ。
でもそれはひとりで歩いた場合で、もしかしたら平凡な道や街でも、「他人と歩く」ということは、それが例えば散歩や小旅行だったとしても記録に残す、ということになるのかもしれないと思ったりもする。
 
浮間舟渡という街がある。赤羽の隣にある、ギリギリ東京都、ギリギリ埼玉ではないところにある街だ。とても退屈していた高校生の私とその友人の鈴木くんは、ある休みの日にちょっとどこかへ行こう、と言って向かう先も決めずに集まった。そして都区内きっぷというのを買った。そのきっぷは、東京都のJR線ならどこでもそのきっぷだけでいけるというものだった。北千住、赤羽、蒲田、新橋、渋谷、県境や路線の境として、印刷されてある駅の名前。なんとなく知っている駅の名前たちの中に、浮間舟渡、彼はひとり異質な空気を醸し出しながらそこにいた。
鈴木くんが「なんて読むの?浮間舟渡?……ってどこ?」と言った。そうして私たちの行き先は決まった。
到着した浮間舟渡という街は、思い入れさえなければ、特筆することのない街だった。江戸川沿いに、団地が続いている。駅の近くにある公園に入ったら、何故か風車が立っていた。やることも特にないので、そのあたりを歩き何枚か写真を撮った。その後はどうでもいい話をしながら、河川敷をずーっと歩いていた。
浮間舟渡という街が、それほど魅力的な街かどうかは私にはわからない。けれど、鈴木くんが「浮間舟渡ってどこ?」と行った瞬間から、その街は私にとっては名前のない街ではなくなった。その街で風車を見てから、私の中には浮間舟渡の記録が残った。そのあたりを電車で通るだけで私はその散歩のことを思い出す。
 
もう少し普通の街でもいいのだ。私にとっては有楽町と京葉線東京駅のあたり、東京国際フォーラム付近のあたりは、初詣をするために待ち合わせをした場所だ。九段下駅のまわりの道は、ファミレスで打ち合わせをしたあと、なにもまとまらないでぐるぐると歩いた道だ。誰かと一緒に行った場所は、記録になる。他人と歩くということは、記録を残すということだ。その人との記憶や、思い出やにおいを残すということだ。初めての恋人と行った喫茶店。サークルのあと、何故かお酒を飲んで歩いた駅までの道と駅からの道。中学生の頃、何故かそこでずっと止まっていた歩道橋の上。恋人にふられたなんでもないチェーンの居酒屋。他人と歩くということは、名前のない場所を減らしていくことだ。また行きたい場所や、行きたくない場所を増やすことだ。行くたびに何かを思い出す場所を増やすことだ。全部が特別な場所になっていく。知らない場所が減っていく。これからもそうやって生きていくのだと思う。

 

 

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 

 

 

【テレビ】フリースタイルダンジョンを観ています

大ブームですね、フリースタイルダンジョン。いつからかわからないけど私もブームに乗って見始めました。ちょうど半年くらいかな。見始めた頃はYouTubeにまだアーカイブが残っていたので飽きずに全部観ちゃいました。

ヒップホップはあんまり詳しくなくて、最初は小中の頃にRIP SLYMEを好きになり、そこからKREVARHYMESTERとかZEEBRAをちょっと聞いた程度。ラップって面白いなぁと思って、ちょっと頑張っていとうせいこうを聴いて「ジャーナリスティックでさいこう!」と感動した覚えがあります。そこからキングギドラの「空からの力」までは聴きました。でもアングラ的なイメージもありそれ以上はあまり聴けなかったのですが、そのいとうさんが出ているということも後押しになりフリースタイルダンジョンの視聴に至りました。

一応、軽く説明すると、フリースタイルダンジョンとは、テレビ朝日の音楽番組で、有象無象のラッパーたちが、「モンスター」となるラッパーと即興(!)でラップを使って、口喧嘩?をして、勝敗を決めるというフリースタイルでバトルをして、勝ち抜きを目指すという構成になっています。

それで、まだ全然詳しくない今の時点の私が、フリースタイルラップバトルについて「ここがおもしろい!」「私はここが好き!」って思ったところを忘れないようにメモします。

※9月14日のフリースタイルダンジョンの感想を含みます

 

思ったこと:どうも、「ライム・フロウ・パンチライン・バイブス・風格・対話・即興力」みたいな要素でバトルしてるらしい。(他もあるかもです)

「ライム」っていうのは、韻のこと?韻を踏むことみたいです。ある種の基本じゃないでしょうか。ある種のラッパーの特殊技能的な側面があるだろうし、単純に韻を踏んでいると聴くほうが心地いいです。かっこいい韻がビシっと決まると最強に気持ちいいです。「フロウ」というのはリズムに対しての言葉の乗せ方?なのかな。これも心地よくリズムに載せていると気持ちいい。

パンチライン」は決め台詞的な、最高にかっこいい言葉のラインです。これはヒップホップだけじゃなくて、普段のツイッターとかでもふらっと現れてパンチライン炸裂させるひとっているなって思ってます。なんか上手いことを言えているってことなのでしょうか。

「バイブス」っていうのは、言葉に感情とか熱量をどれだけだせるか、っていうものみたいで、単純なようにみえて、これが一番「すげえ・・・」って思ったりします。よく若者が言う「エモい」っていうのとおんなじ気もします。「風格」っていうのは、説得力というか、ヒップホップの競技なので、ある種の「生き様」っていうのも採点要素に入っているみたいで、例えばチャラチャラしたやつが「ナイフ隠し持つ」と歌っても説得力がありませんが、MC漢さんみたいなひとが「ナイフ隠し持つ」といったらかっこいいです。説得力があります。

それとフリースタイルバトルっていうのはラップを使った口喧嘩らしいので、勿論「対話」能力も求められます。相手の言ったことにしっかり返せているか、説得力のある言葉を言えているか。8小説のうち一部に返す場合もありますし、全部拾っていく場合もありますが、後者は対話能力の高いラッパーということでしょう。そして、即興バトルであるので、「対話」などを含め明らかに即興であるラインは評価されるわけです。その場にしかないもので韻を踏んだり、アクシデントをネタにしたり、かかっているトラックを引用して踏んだりして「即興力」を示すと、評価されているイメージがあります。

私が面白いと思ったのは様々な理由があるのですが、その中でも、これが大きな2つの要素を含んで絡み合っている点に惹かれました。

 

良いなと思ったところ:「ヒップホップ」と「フリースタイル」のアイデンティティ

どうも、この即興でラップでバトルするという「フリースタイル」は、初めはヒップホップをやるラッパーが「こんなおもしろいこともできるよ!」という特殊技能を生かした遊びとして始まったみたいです。*1 そんな難しい説明をしなくても、即興でその場で韻を踏んで言い合ってるだけで最初は「すげえ!」となります。そういうことです。初めてRHYMESTERの曲を聴いた時、そのスキルだけで「凄い」と思いましたが、韻を踏むということを即興でできるわけです。すごいしかっこいいじゃないですか。ただ最初はあくまで「遊び」だったわけで、バトルしている人はラッパーとしての特殊技能を持つことが求められていたわけです。これが韻を踏むこと=「ライム」だったり、かっこよくリズムに乗ること=「フロウ」だったりするわけです。それから、ラッパーらしくあればあるほどいいわけですから「風格」みたいなことは勿論重要です。これが「ヒップホップ」のアイデンティティです。*2

そこから、「フリースタイルバトルは面白い!」ってことで、ある程度競技として独立して、発展していくわけです。そうするとどうなるかっていうと、「韻を踏むのって凄いの?」ってなっていくわけです。つまりどういうことかというと、あらかじめ考えてくれば、韻は踏めてしまうわけです。一見即興のようには見えるけど、かっこいい韻を踏むことにこだわって、上手く「ネタを仕込んで」来るわけです。今日(9月14日)のフリースタイルダンジョンでも、そういう話が出ていました。そうすると「対話力」「即興力」が大事じゃない?韻をかっこ良く踏むだけなら、バトルじゃなくともいいでしょ、音源でいいでしょ、ってことです。ということになっていきます。これが「フリースタイル」のアイデンティティじゃないかと私は思います。

私が面白いと思ったのは、この2つのアイデンティティのぶつかり合いとか、交じり合いです。価値基準が一つだけであると、いかに上を目指すか、みたいな競技になってしまいますが、必ずしもそうではない。色んなスタイルのラッパーがいます。例えば、「ライム」が固いラッパー。魔法のように音をはめる「フロー」が上手いラッパー。相手の言葉をひたすら拾って返して、「対話」していくラッパー。韻を固く踏まなくてもいいという価値観があると、韻を踏む代わりにいかにかっこいいラインで返すか、という「パンチライン」がすごいラッパーというのも出てくるみたいです。そして、それらがじゃんけんのように、様々にからみ合って戦っています。一人のラッパーが「お前のラップ全部ネタ仕込んでる」とふっかければ「いやお前はそもそも韻が踏めてねえ」とかえしたり。この価値基準が一つだけだと、より固い韻のほう、あるいは対話が上手いほうが強い、ということになりますがそうはなりません。また勿論一点特化だけじゃなくて、このすべての要素のバランスで、どれくらいライムを固くして、どれくらい対話するか、とか、フロウを重視するか、ただ時にはそれから外れてもバイブス満タンでことばを放つか、みたいにさじ加減は様々です。戦ってみるまでわからないようなところがありますし、Aで負けてもBで勝つ、みたいなのがあるから楽しいです。

 

とはいえ:好きなラッパー

ただ、初心者であると、誰がいいラッパーか、上手いラッパーかっていうのが、だからこそわかりづらくて難しいです。初心者はやっぱり耳障りのいい、韻を踏めているのを明らかに「かっこいい」と思ってしまうわけです。それで例えば「スナフキンさんかっこいい・・・」となって見にいくと「明らかにネタだろ・・・」「ネタクソだな・・・」みたいなのがコメント欄とかに書かれているわけです。コメント欄にかかれていたって好きなものは好き!でいいのですが、最初は「完全な即興!」と思って聞いているわけで他の動画などをみて同じラインがあるとテンション下がるわけです。それで揺り戻しで対話が上手いラッパーさんや、パンチライン重視のラッパーすごい!ってなるわけですが、それはそれで耳の心地よさとかライムに対する感動にものたりなさを感じます。完全な即興でも「だけれど」とかが繰り返されるよりは踏んでたほうがかっこいいなとか思っちゃうわけです。

本日の放送で、ダースレイダーさんが言っていたように、ネタを仕込むのも悪いことじゃなくて、スタイルだから、頭のなかに言葉のストックがあって、それを適切なタイミングで吐き出すのも技能(うろ覚え)的なことを言っていました。おお、それはなるほど!と思います。だから結局はバランスなわけで、「ライム」が固いことはある種「ヒップホップ」のアイデンティティを強め「フリースタイル」のアイデンティティを弱めているわけです。逆に韻をあまり踏まない対話型は「フリースタイル」のアイデンティティを強め「ヒップホップ」のアイデンティティを弱めているわけです。それはどちらも間違っていないわけで、聴くほうがどのバランスが好きかってことだと思います。

と、フリースタイルダンジョンを見だしてから、「フリースタイルバトルってなんだ?」「ヒップホップってなんだ?」「何が上手いってことなんだ?」となっていたので、今考えていることをまとめてみたわけです。

 

今のところは:DOTAMAさんが好き

www.youtube.com

今は相手に対して返すし、韻もそれなりに踏むし、パンチライン的なのもあるし、バランス的にDOTAMAさんが好きです。後々この好みがどう変わっていくか楽しみです。どのMCさんも見てて面白いんだけど・・・!

 

 

 

 

あと:ダースレイダー(審査員)最高

わかりやすくて最高です。レギュラーになってずっと解説してほしい。

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*1:韻を踏むことが特殊技能

キングギドラの「空からの力」が日本語ラップの押印主義を作り、その制約のもとでラップすることがアイデンティティとなったみたいなブログが面白かったです。あとこれ

*2:ヒップホップのアイデンティティの崩壊

MC松島氏が、ヒップホップの一要素であるフリースタイルが独立することによって、ヒップホップが本来の価値観から離れているというブログを書いていて、それは面白いなと思った。観ていて感じたのは離れているというより、「ヒップホップ」のアイデンティティと「フリースタイル」のアイデンティティのぶつかり合いなんじゃないか、ってのが今日のブログでもあるわけなんですが

【音楽】最近聴いているもの①

2016年のいいところは、2016年の音楽も1990年の音楽も聴けることだと思います。年間ベストなんてやっていたけど、別にその年のばっかり聴かなくても良い音楽沢山あるからディグる作業も楽しくやっています。こういう私の備忘録もブログにしておこうかと。

 

アルバム

TIME TO GO - RIP SLYME 
Time To Go

Time To Go

 

youtu.be

夏になると毎年聴いているけど、ベストと近年のアルバムしか聴いてなかったんですよね。メロウって言葉を覚えたんですけど、メロウってまさにRIPじゃん!って思ってます。
 
 
 
THE SWINGIN' SIXTIES - the brilliant green 
THE SWINGIN’ SIXTIES
 

 

youtu.be

ブリグリのアコースティックセルフカバー。「冷たい花」がとても良い。
 
 
 
元気です。 - 吉田拓郎
元気です。

元気です。

 

 

加川良の手紙

加川良の手紙

フォークハマってます。このアルバムは昔から部屋に置いてあるアナログ。

 
 
 
 MIETA - 木村カエラ
MIETA(通常盤)

MIETA(通常盤)

 

youtu.be

 「Sync 」と「ROCK」までしか聴いてなくて、「出てるんだ〜」位な感じで聴いてみたらどちゃくそかっこいい。最高傑作かもしれない。

 

 

 

トラック

ねらいうち - 寺島由芙


 フェスの度にゆっふぃー最高だ!ってなる。アルバム出るのちょーうれしいんだけどこれは入ってないらしい。

 

 

 

復興ノ唄 - ゲルニカ


この前までソロかヤプーズの気分だったんだけど、ケラが舞台の挿入歌にしてたから久々にゲルニカに。そしてこんな感じの音楽の気分に。

 

 

 
東京の花売娘 - 佐藤千夜子
そっから更にディグる。 アイドルネッサンスの「お祭りマンボ」のカバー聞いて、50年代から60年代のリズムってなんだろうって考えてて掘り始めた。ゲルニカの源流みたいなのを探してる。
 
 
 
WHOOOO! - OZROSAURUS
フリースタイルダンジョンみててトラックからはまってしまった。オジロは通らなかったからちょーかっこいい。
 
 
 
 フィガロの結婚 - モーツァルト

なんか通りかかったらやってたからフラット入ったコンサートでやってたからハマってる。バイオリンって魔法。クラシックちゃんと聴きたい。
 
 
 
プカプカ - 西岡恭蔵

フォーク第二弾。超名曲。友達とフォークにはまってて色々聴いたけど結局これだ!って戻ってくる。

 

 

 
埠頭を渡る風 - 荒井由実

友達と人生で好きな曲30ってなんだ?って話してたら友達の1位はこれでした。自分の1位はなんだろう。考えてみよう。
 
 
 
 
 
 あとこれ。
 
 

【雑記】鞄を買った

鞄を買った。

使っていた安いリュックサックももう大分使ったので、旅行先で新しいリュックサックを買った。
ぱっと見とてもかわいらしかったので、自分は3色ある色の濃さからどれにするか悩み、真ん中のものを買った。
宿泊先に持ち帰るまでは、良い買い物をしたと思っていた。
 
いざ、その鞄を使ってみると、いくつかの問題があった。
四角くてかわいいな、と思っていたその出で立ちは少しモノを入れて背負っただけでフニャっとなる。全くもってフォルムの意味がない。プッチンプリンをプッチンするとグシャっとなるあの感じに似ている。更に、本当に気になるのは歩くたびにチャックの金具が「チリン、チリン」と鳴ることである。猫になった気分で歩くことを強いられてしまった。
多分、この鞄を作った人は試しに背負って歩いてみたこともないんじゃないか、と思った。フニャっとなる問題はまだしも、金具がチリンチリンとなる問題は少し歩けばわかりそうなものだ。おそらく、完成した、やったー!で終わってしまったのか。それとも、それほど高級品でもないから気にしていないのか。かわいいのに勿体無い。
私は貧乏性なため、なんとかこのかわいい鞄をかわいさを保ったまま背負えないかと試行錯誤した。鞄を買うのは約2年ぶりである。せっかくの2年に1度の出会いをこんな形で消費するのは勿体無い。フニャっとならないように厚紙をいれてみたり、チリンチリンしないようにビニールテープを巻いてみたりしてみたが、どれも上手くいかなかった。
 
これはセンスだ、と私は思った。ファッションセンスのことではなく、生きるセンスのことである。世の中の人は、殆ど鞄を持っている。そこには仕事の書類やら、手帳やら、常備薬やら、あるいはマンガやらを入れている。多くの人は何も背負わず自由にはなれない。
鞄は人間そのものを映すし、人の生きるセンスを映す。生き方や、生きてきた習慣を映す。私は手に持つ鞄は持ちたくない。きっとどこかに忘れて、そのままになってしまう。電車の前の女の人は、器用にかわいらしい小さな鞄ふたつを、吊革にもつかまらずに持っている。私には出来ない。友人のOさんは、普段鞄をもたない。いつもポケットに入れるのはスマートフォンと、小さなモバイルバッテリーと同じく小さな財布だけで、手ぶらで飄々と現れる。彼が何か受け取ったりしたり、私が彼に渡すものがあると、とりあえず持っててくれませんか、鞄ないので、と彼はそれを私の鞄などに入れておく。私はだいたい忘れて渡しそびれてしまうし、彼も忘れて受け取りそびれてしまうのだが、そういえば忘れてましたね、くらいな全く困ってない感じで、次の日あたりに飄々とメールがくる。交差点でまわりを見渡すと電車の中の人たちは、皆それぞれ自身にあった鞄を背負っている。少なくとも、その人自身をある程度映しているようには見えた。
背負っただけで、フニャっとなってしまう。少し歩くと、チリンチリンと音がする。かわいらしくあろうとしても、どこか適当で、肝心なところがしっかりしていない。それでも、騙し騙し背負われている。この鞄は、いかにも私の生きるセンスだな、と思った。

【雑記】スマートフォンによってもたらされる世界が脅かす私の孤独についてのこと

ずっと前から気づいていたけど、言霊ってものを信じているから言わなかった。でも流石にもう認めたほうがいいから言う。私はスマートフォン依存症だ。というか、私以外もたくさん居るんじゃないかしら、スマートフォン依存症。

でも、スマートフォン依存症ってものはあるのだろうか?いや、それはあるにはあるのだろう、スマートフォン依存症。でも、例えば電車に乗ったらみんながスマートフォンをいじっている。ホームでもいじっている。歩きスマホなんかもしている。もはや、新聞を電車で読んでいる人なんて少数派もいいところで、ちょっと長い電車に備えて文庫本を持っていく人も少なくなったんじゃないかしら。それじゃあスマートフォンに依存するのは普通のこと、依存症だなんて、異常な病気みたいに騒ぎ立てることじゃないのかもしれない。

でも、これまでに確かに存在したのは、携帯依存症だ。自分が高校に入った頃買ってもらった携帯はまだいわゆる「ガラケー」だったから、確かに親に言われた。気をつけなさい、携帯依存症。

あの頃はまだ、「携帯に依存する」というのが異常なことだったのだろう。対して、今現在はどうなのだろうか。スマートフォンは携帯などと比べて色んなことが出来すぎるので、あんまり一つのことに執着、つまり「依存」しているって感じはしない。スマートフォンを使っている人は、料理のレシピを観てるのかもしれないし、それこそそこで新聞を読んでいるのかもしれない。映画を観ているのかもしれないし、本を読んでいる、音楽を聞いているのかもしれない。依存と簡単に断定するには、多様性にしっかりと富んでいる。それならスマートフォンを触り続けることは、一概に「依存症」なんて言えないのかもしれない。スマホは目的じゃなくてツールにすぎないのだ。

でも、それでもやっぱり思うのは、私は「スマートフォン依存症」だ、ってことだ。そしてこれから話すのは、じゃあここで言う「スマートフォン依存症」ってなんであるのか、ということと、私のような「スマートフォン依存症」の人は気をつけたほうが良いってこと、この2つである。私がこれを書こうと思った理由は、はっきりとは自分でもわからないが、おそらく、私がスマートフォン・携帯のない学生時代を送った最後の世代であり、スマートフォンのある学生時代を送った最初の世代のため、意味のない義務感を覚えたのだと思う。そして、今私が触れているスマートフォンという装置は、果たしてなんであるのか、これを再定義したい欲求に駆られたのだと思う。これから私が書くのは、いたって当たり前のことである。同時に、当たり前だけど、いまいち抜け出せないスマートフォンの世界のことである。

 

まず、本題に入る前に、軽く私の話をする。私はある程度普通の家庭に生まれ、ある程度普通の子どもとして育ったように思う。そして、歌ったり冒険を想像したりするのが好きな幼年期だった。人より少しだけ本を読むのが好きで、人より少しだけ運動ができなくて、走るのも歩くのも遅かった。でも速く走るのには憧れていた。そういうの楽しいなって思っていた。

私はまだ自己分析や振り返りができるほど、成熟した大人ではないけれど、恐らく幼年期の私と世界のつながりは「物語」の中にあった。読んでいた児童文学や絵本の中が、世界であり、ひとつの社会だった。勿論、このような空想の社会だけではなくて、同時に幼稚園の中も、私にとって家族の次に経験した、大きな社会/世界であった。私は幼稚園という世界では、馴染めなかったり、友達がいなかったりしたわけではないけれど、歩くのも走るのも遅かったので、よく置いて行かれた。だいたい、優しい女の子とかが戻ってきてくれるのだけど、置いて行かれているときの私は、孤独だった。まだ孤独って言葉は知らなかったし、寂しいって思っていたかもわからない。「待ってよ」くらいなものだと思うけど、それはきっと孤独だった。幼少期の経験というものはある程度印象強く残るものであると感じる。

ここで私が幼年期のことを持ち出して言いたいことは、誰でも「世界」「孤独」というものを経験して成長していくということだ。その経験過程は人によって違うし、大して「孤独」は感じなかった、普通に生きている教室空間以外の「世界」(=社会)なんて思い当たらないな、という人もいるだろうから、その度合いもバランスも人によって違うということは言うまでもないが、ともかく、私にとっての憧れる「世界」は物語だったし、「孤独」は置いて行かれた記憶だった。そして、一般的に「世界」というものは「触れたい対象」であり、「孤独」は「逃れたいもの」である。このことをまず前提に置いておきたい。反対に、「世界」(社会)との関わりに疲れ、「世界」が「逃れたい対象」であり、「孤独」が「得たいもの」である人もいるかもしれない。どちらにしても、「世界」「孤独」この2つのちょうどいいバランスを人は生きながら探していると言っていい。

さて、私が言ったこの場合の「物語」というものについてもう一度述べておく。私にとっての「物語」は「幼稚園という世界」の他にもう一つ存在していた「世界」つまり「擬似世界」である。物語はあくまで、世界のようなものであって、本物の世界ではないのだ。でも、誰かが何かの世界を空想して作った「擬似世界」である。現実ではない。そこには見た目が子供の探偵がいるかもしれないし、ネコ型のロボットが居るかもしれないが、そこは「世界」であり、人々はそこに惹かれるのである。私の場合、「擬似世界」にはまず物語が設定されたが、人によって大事にする「擬似世界」というものはそれぞれ別に存在するだろう。例えば学問だってある種の社会であり、歴史であればかつて存在した社会を研究することとなる。これもひとつの「擬似世界」である。先ほど述べたように、人は世界に触れたいものであるとすると、人は世界そのものに触れられない場合「擬似世界」を求めると言える。(勿論、ここでいう擬似世界と定義されるものに触れる要因としては、知識欲とか別の理由も想定しうるべきではあるけれど、ここではややこしいので置いておく)まず、人が社会そのものに触れられる時間はそもそも限られるし(家に帰り、一人の時間があるだろう)、あるいは、現実の社会そのものと向き合いすぎると、人は疲弊してしまうので、擬似世界のようなもう一つの世界を本物の世界の代用として利用する。他には、現実の社会そのものと上手く折り合いがつかない場合など(母親が仕事で一人の時間が長い、友だちが少ないなど)、社会そのものの代わりに、これも擬似世界を利用することで、世界そのものと触れたい欲求を満たす。ここで「世界そのもの」に触れる機会が多かった人はコミュ力が高く、「擬似世界」が多かったひとは低くなるような気もするのだが、その話はややこしくなるので置いておくとしよう。

 

長くなったが、ここでスマートフォンの話に戻る。では、ここでいうスマートフォンとはなんなのだろうか。ものを調べる装置だろうか。新聞の代わりだろうか。電話の代わりだろうか。それも間違いではないが、スマートフォンとは「世界」と触れられる装置なのだ。それも、物語のような「擬似世界」よりも、より世界そのものに近いものに触れられる装置なのである。

細かく言うと、世界と触れられる装置というものはスマートフォンだけではなく、昔から存在した。スマートフォン以前の「電話」もそうだし、「テレビ」もそうかもしれない。もっと広義に考えれば「手紙」もそうだろう。手紙は最古のソーシャルメディアといったところだろうか。

しかし、スマートフォンはそれらとは似ているが、明らかに異なっている。手紙はやりとりによって世界と触れられるが、そのスピードはものすごく遅い。電話は一度に一人の相手としか話せない(話せなかった)から、世界と言っても最小単位の世界としか関われないし、それなりにお金もかかる(かかった)。新聞やテレビは誰かの映し出す世界を一方的に受け取ることは出来ても、自分自身はその世界に干渉できない。テレビが供給したのは、自分の存在しない世界なのだ。つまり、少し乱暴に定義してしまえば、スマートフォン以前の携帯や、パソコンは「世界と触れられる装置」の先駆けであると言っていい。スマートフォンはそれらの装置を経て、様々ある使用用途と同時に「世界と触れられる装置」としての機能を強化し、発展してきた。メールからSNSやLINEに。電話することだってもうたいていはお金がかからなくなった。(毎月の固定料金のみなど)擬似世界への入り口として使われることの多かった、大きい画面よりもむしろ、いつでも手軽で身近な世界であることを選択して、スマートフォンは、持ち運べるポケットサイズの世界として存在している。しかも、それは今までの擬似世界よりも、よっぽど世界そのものに類似しているのだ。

スマートフォンを開けば、友達が話している。好きな人が話している。しかもそれぞれ別々に話しているだけではない。そこは例えばタイムラインだったり、あるいはグループトークだったりするけれど、色んな人が集まって、集合体として、世界を形成している。それに加えて、相手の愛か自分の少しの勇気があれば、その中の好きな子とだけお話したりだってできる。他愛のない世間話だけじゃなくて、好きな音楽のこと、知らない街のこと、知りたかった考え方、哲学、そんなことだって話していたりするのだ。これは当たり前のようで、とても革命的なことだ。なぜなら、このことは今までの擬似世界とは明らかに異なっているからだ。今までの世界は、物語にしろ、学問にしろ、映画にしろ、相手が存在しなかった。物語は極めて「世界」じみているが、物語の中の人々とコミニュケーションをとれることは基本的にあり得ない。もしあるとすらば、それは、自分の空想の中に限られる。学問にしろ、映画にしろ、過去の人々の社会の積み重ねで出来た擬似世界は、そのものだけでは自己完結してしまう。それを更に広げていくためには、世界そのものに還元していかなければならない。「映画を観る」ことが「擬似世界」を生きることであり、「映画の感想について話す」ことは、擬似世界を「世界」そのものに還元することである。しかし、スマートフォンの中にある「世界」は、自己完結しない。「おはよう」とつぶやけば「おはよう」と返ってくる世界である。それどころか、自分が「おはよう」とつぶやくことなしに、開かれる前から「今日疲れた」「楽しかった」「早いけど寝る」のように、毎日異なる世界そのものが動いているのである。自己完結どころか、ほぼ終わりがなく、世界が動き続けているのである。

私は、ある人間にとって、孤独が逃れたいもので、世界が触れたい対象であると述べたが、そのような人間は、スマートフォンという装置を得ることによって、どうなるだろうか。無論、そのポケットサイズの世界に没頭することは言うまでもない。孤独を減らしたいと感じ、世界を求めれば求めるほど、ポケットサイズの世界にのめり込んでいく。その中には世界があるのだから、スマートフォンに触れることはほとんど世界と触れることと同義であるし、世界と孤独が相反するものであるならば、世界に触れる時は人は孤独ではない。そうするとついに「スマートフォン依存症」の誕生である。

ここでひとつの問題が提起される。私はスマートフォンは「世界と触れられる装置」述べた。しかし、これまでここまで明確に、擬似世界より世界らしい世界お触れられる装置は存在しなかった。つまり、社会そのものは、いつでも世界とつながれる装置を想定していないということである。

世界とのつながりを求める人、極端に言えば世界とのつながりを目的とする人が、世界とつながれる装置を手にした場合、それを使えるだけ利用してしまうのは自明のことである。しかし、それでは社会に綻びが出てくる。繰り返すが、これはスマートフォンそのものが悪なのではなく、このような装置の存在をこれまでの社会(世界)は想定していなかったためである。まず、一番基本的な例を挙げれば、働く間は私用でスマートフォンを取る訳にはいかない。授業中はTwitterはできない。しかし、社会とつながることは「手段」ではなく、ある種の「目的」のようになっているため、目の前に「目的」が転がっているにも関わらず、仕事という社会生活を送るための「手段」を選択しなければならなくなる。これは一種のジレンマであるとは言えないだろうか。勿論、生活の手段としての仕事はこなさなくてはならないから、まだ問題はないし、また、このように半強制的に、スマートフォンを使えない場合は別に「依存」と今回定義した人でも使わないのである。問題は、使ってもいいが、使わないほうがいい場合なのである。良い例が思いつかないが、先ほどの例と並列させると、受験勉強や資格試験がこれにあたるのではないだろうか。これは、勉強しなければいけないが、しなくても罰を受ける訳ではない。ただ、行わないと望んだ将来を選べなかったり、出世ができなくなってしまう。

ここで一度「受験勉強」や「出世」について考えてみる。それを行ったり、目指す理由は様々なものが挙げられるだろう。ただ、大きくわけるとその目的は二つにわけることが出来ると思う。「お金を稼ぐこと」か「やりたいことをするため」である。お金を稼ぐと、ある程度快適な生活を送ることができる。心地よい家に住んだり、食べたいものを食べたりできる。同時に、例えば人と遊びに行ったり、趣味に没頭する余裕をもって生活を送ることができるかもしれない。

そして、「人と遊びに行く」というのはまさしく「世界との接触」である。そして、「趣味に没頭する」、例えば趣味が物語を読むことであったとしよう。そうすると趣味は「擬似世界への接触」と言い換えることができる。やりたいことをするというのは、趣味であれ、職業であれ、例えば小説を書きたい、漫画家になりたいというものであったとしよう。これも「擬似世界への接触」と言い換えることができる。つまり、お金を稼いだり、将来やりたいことをやって成し遂げたいことの一部は、わざわざ大回りをしなくてもスマートフォンによって代用できるということになる。無論、スマートフォンのみによってのほうが出来ることは限られるが、それでも効率的なものを考慮にいれた際、必ずしも劣っているとは言えない。つまり、スマートフォンが存在することは、目の前に安易かつ大きな目的そのものが置いてあることなのだ。

ここでもう一度擬似世界について考えてみる。今までの社会は、社会そのものとつながれない時間があるのが当たり前だった。そのため、擬似世界というものが存在した。小説、映画、演劇、学問。このようなものである。しかし、スマートフォンという、今までの擬似世界に触れられるものよりも遥かに世界そのものに触れることができるものが生まれたのである。果たして擬似世界は必要であろうか。勿論、小説、映画、演劇、学問そのものは必要であるし、それらには大いに擬似世界としての役割以外の魅力的な側面がある。だが、それらの擬似世界的な側面は必要だろうか?あるいは、それらの擬似世界的な側面は、これから求められるだろうか。

例えば、「スマートフォンがあるから勉強できない」これはただの言い訳であろう。しかし、「スマートフォンがあるから本を読まない」と聞くとどうだろうか。果たして本を読まないことは問題だろうか。「2時間座って映画見るより、スマホだらだらいじってるほうが楽しい」こう言ったとき、少なくない人がそれに共感を得たり、そう思うようになったという心当たりがあるのではないだろうか。

話を戻すが、つまり、社会は常に世界とつながれる装置を想定していなかったということは、してもしなくてもいいことを常に妨害しうる装置を想定していなかったということであり、擬似世界を脅かすような、世界そのものではないが、より世界そのものに近いものが生まれることなど想定していなかったということを意味する。擬似世界は、スマートフォンによって、これまでのように成り立たない可能性があるのだ。

そして、これまでの擬似世界を作り出す装置は、作り出すのが「擬似世界」であったため、社会に想定されていたし、終着点が存在した。例としてラジオを挙げよう。今日のラジオは今まで上げたどの擬似世界よりも、世界そのものに近いメディアであるかもしれない。テレビに似ているが、テレビよりもリスナーとして、自分も社会に参加することができる。ラジオが想定する世界に、自分自身の存在が想定できる。だからある人は「ラジオ依存」のように、毎日ラジオをつけて生活するのだろう。しかし、その依存性と同時に、今までの社会はラジオの存在を社会の中に想定していた。「深夜ラジオを聴きながら受験勉強」という文化がお約束のようにあったし(それが実際良いのかはわからないが)、あくまでラジオは「聴く」ものだから、世界に触れると同時に勉強することだってできた

ラジオでない他の擬似世界はどうだろうか。例えば物語に没頭したら、物語にのみ集中し、勉強はしなくなるかもしれない。しかし、それならば小説家になればいいのだ。演劇にのめり込んだら、役者を目指せばいい。要するに、擬似世界というものは、終着点が与えられているのである。先ほども述べたが、擬似世界はあくまで「擬似」であるから、それを世界そのものに還元する必要が生まれる。そのため、終わりのない泥沼にはならないのである。そのため、擬似世界は、今までの世界で想定されうるのである。私は、学問も擬似世界であるといったが、医学に没頭したらどうだろう。親は大いに喜ぶのではないか。

しかし、スマートフォンの存在は今までの擬似世界とは違って、想定していない。いつまでも世界と触れていること、終着点のない装置なんて想定していないのだ。コミュニケーションそのものは、行き着く先が想定できないのだ。なぜなら、コミュニケーションは手段というより、目的だからだ。

ここまで、少々強引に論を進めた。もし仮に、スマートフォンが世界とつながれる装置だとしても、それによって、他のことを放棄してしまったり、擬似世界の魅力が失われてしまうということはない、そのように考える人も多いと思う。確かに、そこまでスマートフォンが強大な魅力をもっているとすると少々強引かもしれない。また単純に、スマートフォンがもたらす世界よりも、映画を観たり、作ったりすることに魅了を感じ、それを脅かされることはないと言うかもしれない。私も、スマートフォンによる世界には魅力を感じるが、物語の擬似世界に没頭することを好む。物語を愛している。ただ、それは私たちが、スマートフォンのない時代を生きた経験があるからではないだろうか。

今日、私と同じか私より上の世代の人は、生まれた時からスマートフォンがあるということはなかった。そして、スマートフォンが生まれるなんて想定していない世界のシステムの中で生きてきた。ちゃんと、幼い時に「世界」「孤独」「擬似世界」を経験して育ってきた。ポケットの中の世界に触れる前に、世界に触れられない孤独な時間を感じ、それを擬似世界で満たす経験をしている。物語の世界がとても魅力的だと気づく機会を得たのである。

先日、電車に乗っていたら、3歳くらいの子とその父母と見られる夫婦が、親子で私の隣の席に座っていた。そしてその子は父親に何かをねだった。そして、父親スマホを取り出した。その子は嬉しそうに笑って、そのスマホでゲームを始めた。まだ3歳だからSNSはないだろうから、子供用のゲームのようなものをするのだろう。しかし、その子はおそらく、私よりはるかに早く、スマートフォンを使って社会に触れる体験をするだろう。私よりはるかに早く、いつでも社会に触れられる装置を、いつでもポケットに入れるようになる。

もし私がその子なら、物語に今のように「世界」を感じなかっただろう。今のように物語を求めなかっただろう。そんな擬似世界なんかに頼らなくても、もっと社会そのものに近いものが、ポケットに入っているのだから。そうすると、擬似世界は役割を終える。小説、映画、演劇も、勿論擬似世界としての役割以外も持ち合わせているから、なくなりはしなくても、入り口は狭くなり、その役割の一部を終える。それに没頭する人はなくなりはしないが、それに没頭する人数は明らかに少なくなる。物語の次に狭まっていくのは学問かもしれない。そうなるとそのうち人は椅子に座って勉強しなくなるかもしれない。目の前に、世界とつながれる装置があるのだから、他の事の価値が相対的に下がるのは当たり前のことだ。私は、若者の〇〇離れの一因もこれにあると思う。

私が言いたいことは、だからスマートフォンをなくそう!でも、スマートフォンを幼いうちからもたせるな!でもない。本来、世界とつながる機会が増えるのは好ましいことのはずなのだ。私は、スマートフォンを持って、SNSを始めてから、今まで知り得なかったことも知ったし、知っている人の知らない考え方に触れて、仲良くなるきっかけをもったりもした。まさに、知らなかった人に知り合えたりもした。大切な人の好きなものを知れた。友人と語り合えた。私は常に世界を求めて孤独から逃れようとしていたから、ポケットに入る世界の出現は喜びであるし、救済である。しかし、だからこそそれに依存するのである。世界はこの装置を想定していない。想定していないからといってなにが起こるからは私はわからない。けれど、その存在は私たちに想定していなかったことをもたらし、想定していなかったものまで奪うのではないかと私は思うのだ。

 

一番始めに話を戻そう。私のような「スマートフォン依存症」の人は気をつけたほうが良い。ここでいう「スマートフォン依存症」は「コミュニケーション依存症」なのだ。コミニュケーションは魅力的だ。もしかしたら他のものを奪うかもしれないほどに魅力的だ。街ではたくさんの人がスマートフォンをみている。その全てを否定するわけではない。スマートフォンはツールだ。料理を調べる、単語を調べる、カメラになる、懐中電灯になる、勉強ができる、映画が観れる。スマートフォンをツールとして「今までの擬似世界」と触れている場合は問題ない。世界は恐ろしく便利になった。でも、その小さな箱のなかにある「世界」を気にして、「孤独」の割合調整をしている場合は、気をつけたほうがいいかもしれない。目の前に世界が転がっているのだ、これ以上魅力的なものはない、野望が減る、草食化する、若者は保守化する、もしかしたらそのうち医者の数が減る?大好きだった物語を読もうと小説を開いて10ページほど読んだところ、その世界で何が起きているか気になってスマートフォンを開く。スマートフォンのなかった小学生だった私は思う。それは分かれ道でいつまで経ってもバイバイできなかったあの感じに似ている。放課後、意味もなくダラダラ残り続けていたあの感じに似ている。私はまだぎりぎりそれを知っている。

スマートフォンが次に奪うのはなんだろう、私の孤独だ。擬似世界に入ってまで埋めようとした、人々の孤独だ。孤独がなくなるとなにがなくなるのだろうか。私にはわからない。孤独がなくなると寂しさはなくなるのだろうか、私にはわからない。

【音楽】きのこ帝国野音

滝のような爆音を聴きながら、私は人間はいつまでたってもずっと、孤独なのかもしれないな、と思った。

 

私を包んでいるのは音楽だけで、たとえ目を閉じてもずーっとなり続ける。目を開けると雨粒に反射したライトの光が見える。音は鳴っている。もし前につまづこうしても後ろに倒れようとしても私はきっとこのまま、ここにいるだけだ。ここにあるのは音と、佐藤さんの言葉、私の思考。思考だけ。

新曲。聴いたことのないメロディー。前奏はフィッシュマンズのような感じもする。彼女が云う、10年後も100年後も一緒にいるあなた、とはもしかしたら佐藤さん自身のことなのかもしれないな、なんて勝手に思った。
大切な人がいる。同じ時に同じようなことを思うような大切な人がいる。もし、あなたとずっといたい、と思ったら、同じように、きみとずっといたいなんて思ってくれる人がいる。でもそれは厳密には同じ気持ちじゃない。もし大切な「あなた」に対してずっといたいと思ったら、その「あなた」は「ぼくとずっといたい」って思わなきゃいけない。だってそうでしょう。「あなたが好き」と同じ気持ちは「きみが好き」じゃなくて「ぼくが好き」だ。僕らはみんな相手のことを考えているつもりで、ずっとどこかで自分のことを考えている。同じ気持ちでいたい、なんて思うけど、本当は同じ気持ちじゃなくて、私のことを考えて欲しい、なのかもしれない。だけどそれじゃあ寂しすぎるから「私とあなたでずっと一緒にいたい」って思う。ちゃんと自分のことも考える。そしたらあなたも「君と僕でずっと一緒にいたい」って思う。これでおんなじ気持ちだ。孤独だ。人はいつだってひとりぼっちのままだ。
 
アンコール、佐藤さんがまた出てきた。なんだか彼女はとても楽しそうだった。あーちゃんも、谷口くんも、コンくんも、楽しそうだった。彼らはおんなじきもちなんだろうか。きっとそうではないと思う。
拍手はまだ鳴っていた。3度目に顔を出した彼らはまた楽しそうに、国道スロープを演奏し始めた。観客の手が、初めてあがる。自分の前や後ろにこんなに沢山の人がいたのかと思った。知らない女の子の顔が見えた。彼女は楽しそうだった。気づけば私も手をあげていた。でもなんか違う気もして、下げた。曲が駆けている。上がっている手も下がっている手もある。多分私は、とても楽しかった。おなじ気持ちで、おなじ歌を聴いているのだろうか。多分違う。でも、なんだか、違う気持ちのままで、ひとりぼっちのままで、人は幸せになれる気がした。
きのこ帝国のライブに行った。
 
 
1.猫とアレルギー
2.35℃
3.パラノイドパレード
4.畦道で
5.ハッカ
6.夜鷹
7.クロノスタシス
8.夏の夜の街
9.夏の影(新曲)
10.海と花束
11.足首
12.WHIRLPOOL
13.ミュージシャン
14.夜が明けたら
15.クライベイビー
16.東京
 
ec1.
17.疾走
18.明日にはすべてが終わるとして
 
ec2.
19.国道スロープ